ホーチミン(Hồ Chí Minh)に2泊3日で行ってきたよ!③

Xin chào mọi người !
みなさん、こんにちは!いしかわつかさです。

ホーチミン旅行2日目の午後です。
本当は2日目を1回で終わらせたかったのですが、結構な長さになったので、分けました。今回はベトナム戦争のゲリラ戦線の本拠地、クチツアーに参加したのでその話です。

目次

Agodaで人気の高いツアーに参加

前回のJTBツアーが楽しかったので、今回もツアーを利用することにしました。使ったのは僕がよく利用するAgodaです。
Agodaが主催するのではなく、Agodaが代理店を務め、パッケージツアーなどを企画する、旅行会社やツアー会社を仲介しています。

今回は、評価も高く、口コミ件数も多く、料金も安い上記のツアーに参加しました。ちなみに、ガイドは英語のみです。日本語はありません。
理解度で言えば、やはり日本語の方が断然いいです。
次回からはやっぱり日本語ガイドがいいかな。ストレスが無い(笑)

クチトンネル: 午後のガイド・ツアーの概要

今回は、午後のプランにしました。午前中は、前回の内容の通り、建国記念の日のイベントを見て回っていたので、2部制に分かれているのは、とても使い勝手が良くて有り難いです。

タイムスケジュール ※実際

13:00 ホテル集合&出発

Agodaの申込時に、ホテルを選択しました。
ホーチミン市内のそれなりにちゃんとしているホテルはほぼ登録があるんじゃないかと思います。
特に、観光客が多い1区は問題ないと思います。かなり多くのホテルがリストアップされていました。

13:40 Sơn Mài Lâm Phát(工芸品工房)

戦争の被害者の働く場所として作らえた工芸品工房です。
卵の殻や貝の殻を使って作らえた工芸品はまさにアートです。ベトナム戦争を知るツアーの最初の場所としてはとても良いと思いました。

15:00 Địa Đạo Bến Đình Củ Chi(史跡クチトンネル)

このツアーのメインです。ベトナムのホーチミン・クチを中心とした、全長200kmの地下トンネルネットワークがある跡地の見学します。ベトナム戦争中に、南ベトナム解放民族戦線 によってゲリラ戦の根拠地として作られ、ここよりカンボジアとの国境付近までトンネルが張り巡らされていた。

18:30 ホテル着

約6時間のツアー。ほぼ移動でした。
当たり前かもしれませんが、ホテルの前まで行ってくれました。こういうサービアは助かりますね。

全て英語でしたが、結果的に、凄く良かったです。
車での移動だけでも費用が掛かるし、説明もしてくれるので、
個人でこれをやろうと思うとしんどいですね。あっ!ちなみにですが、英語は少ししか分かりません。が、なんとかなりました。

Sơn Mài Lâm Phát(工芸品工房)

戦争の被害者によって生み出されるアート

説明によると、ベトナム戦争の化学品による被害で、体の一部の自由が奪われた人、いわゆる戦争の被害者の働く場所としてここが作られたようです。

その工程を順番に見て行くことが出来ます。この日は、国民の祝日の為、作業者がいませんでしたが、平日であればいるそうです。昔に、福井県の伝統工芸品である、若狭塗の体験をした事がありますが、それを思い出しました。

一つ一つ丁寧に作られ、手間暇掛かっているなと思いました。出来上がった作品はアートで美しいですが、心の汚い僕は、大量生産が可能な仕組みで、同じものがたくさんあったのと、値段がかなり高価だった事から、お金の匂いがしてちょっと残念でした。安い労働力でって感くぐってしまいます。もっと素直に見れる心が欲しい。

実際、作品は凄いいいので欲しいなと思いましたが、戦争の被害者の方を助ける為は言え、気軽に買えるような金額ではなかったです。販売所もあったのですが、そこは写真撮影が禁止されていたので、撮れませんでしたが、すごくたくさんあり、プレート型だけではなく、日常的に使用するようなお盆や家具などもあり、値段もさることながら驚きでいっぱいでした。

こういう工程が見ることが出来るのはいいです。楽しいです。
少しずつ完成に近づくに連れて、参加者も「おぉぉ」ってなっていたので、このあたりで、一度一体感が生まれました。
ちなみに、参加者はオーストラリア人、アメリカ人、ロシア人だったかな?名簿をちらっと見た時、そう書かれていたような気がします。

クチ・全長200kmの地下トンネル

今回のツアーのメインです。クチトンネルはホーチーミン・クチの民兵による地下防衛トンネルです。1946年から1968年までの22年間、当初は簡素な道具を使って掘って居ましたが、22年の歴史の中で道具も進化し、米国との戦争にも貢献しました。

ベトナム戦争はアメリカが初めて負けた戦争

  • 1955年11月から1975年4月にかけて、インドシナ半島で起きた戦争です。
  • 原因は、北ベトナムと南ベトナムの内戦でしたが、アメリカやソビエト・中国が参戦し、資本主義陣営VS社会主義陣営の代理戦争となりました。
  • 北ベトナムの社会主義陣営が勝利し、アメリカは撤退しました。
  • アメリカは、ハイテク戦争を仕掛けて、枯葉剤、ナパーム弾、ヘリコプターを活用しました。
  • テト攻勢による犠牲者の増大やソンミ村虐殺事件を経て、反戦運動が盛り上がり、アメリカは撤退しました。

なぜ、世界最高レベルのアメリカ軍は負けたのか。

北ベトナムの兵士の士気が高く、南ベトナムの兵士の士気は低かった。

革命家のホー・チ・ミン率いる北ベトナムは、インドシナ戦争(1946年~1954年)で、多くの犠牲を払いフランスに勝利したものの、1954年のジュネーブ協定により、ベトナムは南北二つの国に分断されました。
戦争に勝ったにもかかわらず、国土の半分しか得られなかったことに、北ベトナムの人々は落胆します。
しかしだからこそ、「何としても祖国統一を果たそう」と強い愛国心により一致団結しました。兵士の士気が高く、アメリカの物量作戦に対しても、不屈の精神で向かっていけた要因です。

対して南ベトナムは、言ってみれば、アメリカの傀儡国家。大統領に就任したゴ・ディン・ジエムは政府に反対する人々を厳しく弾圧し、自分たちは賄賂をもらうなどして贅沢に暮らすという独裁政治でした。このため、南ベトナム国民には一致団結して国を守ろうといった愛国心などありませんでした。

北ベトナムと協力した南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)の士気が高かった。

政府に反対する南ベトナムの人々は、反政府武装組織である南ベトナム解放民族戦線(通称ベトコン)を結成しました。家族や仲間を南ベトナム政府に投獄、拷問、殺されたりした恨みからベトコン兵士の士気は非常に高いものでした。ベトコンに目を付けた北ベトナムからの武器や弾薬の援助もあり、ベトコン兵士は士気の低い南ベトナム軍を退けるようになりました。

その後、南ベトナム軍を援助するため、アメリカが南ベトナムに派兵しますが、そのアメリカの物量攻撃に対しても、ベトコンは「広大な」地下トンネルや徹底的なゲリラ戦を仕掛けることで、アメリカ軍を翻弄します。

北ベトナムへの爆撃が大きな誤算を生んだ

トンキン湾というところで、アメリカの軍隊が北ベトナムの魚雷艇から攻撃を受けたことを口実に、アメリカは北ベトナムへの爆撃を開始しますが、北ベトナムは工業国ではなく、ほとんどが農村やジャングルだったこともあり、爆撃の効果はそれほどありませんでした。これがアメリカの大きな誤算となりました。

焦ったアメリカ軍は、怪しいと思った農民などを捕まえては、訊問し、射殺。アメリカ軍による村の破壊が進むと、南ベトナムの農民は、ますますベトコンの側に付き、戦争が泥沼化するなかで、テト攻勢、ソンミ村での虐殺事件などが世界のメディアが取り扱うようになり、アメリカ国内で反戦ムードが高まりました。

アメリカ世論を受けて、アメリカ軍は次第にベトナムから撤退していき、弱体化した南ベトナム政府は、北ベトナム軍に敗北。1975年4月の首都サイゴンの陥落をもって、ベトナム戦争は北ベトナム(社会主義陣営側)の勝利で幕を閉じました。

今回、ツアーに参加して説明を受ける中で感じたことは、このベトナム戦争でアメリカ軍に勝利したことを凄く誇りに思っている事でした。当然と言えばそうなんですが、自分たちの事は自分たちでやろう!という力を強く感じました。それがまさに今、ベトナム国の成長に繋がっていると思います。

秘密の地下道を見学

ちょっと脱線しましたが、秘密の地下道の見学もしてきました。ホントに狭いかったです。広い空間もありましたが、通路はホントに狭いです。すれ違う事は多分無理じゃないかな。暗黙のルールがあったんでしょうね。

当初、トンネルは短く、資料や武器を隠し、また抵抗する兵士などが隠れる程度で、通信・情報のサポートに使用する単純な構造のようでした。クチ地区の各村は独自のトンネルを作りましたが、アメリカ軍の攻撃に耐えうる為、村間の移動や通信をするために、必然的に各トンネルを繋ぎ、途切れることのない複雑なトンネルのシステムが形成されました。

1965年までに約200kmのトンネルが掘られ、それから500kmの塹壕が周囲の交通のために掘られました。この時のトンネルは、3つの異なる深層階で作られました。上層階は地面から約3m、中層階は地面から約6m、下層階は8mから12mまでの深さで、多くの大きなトンネルがあります。多くの小さなエリアは、居住区、会議室、救急エリア、映画室、煙の出ないホアンカムタイプの台所、サイゴン川を通る緊急出口、密かに科学的に偽装された換気システムなど、さまざまな機能に応じて分割されています。

トンネルはラテライト粘土質なので、耐久性が高く、地滑りが発生しにくく、重火器の破壊力に耐えることが出来ました。地下室の間の上下の道は秘密のハッチが配置され、地面へのトンネルの入口の蓋は葉や自然の草で丁寧に覆われています。トンネル内の通路にはさまざまなサイズがありましたが、体の小さなベトコン兵が屈んで入れるサイズであり、武器を持ったアメリカ兵には、厳しい環境だったそうです。

この資料映像は日本語にも対応していました

この施設では1時間30分ぐらいかな?見学しました。施設内では、銃を撃つ体験もありましたが、僕のグループでやりたいと言ったのが、僕だけだった為、僕の為にみんなを待たせるのは…って思い辞めました。
めっちゃ屈強な外国人がみんな、要らないって言うリアクションでした。あれは、怖いからなのか、別に珍しくなからなのか、どっちだったんだろう。本音はやりたかった。残念。

日本人である僕は、また戦争を知らない世代なので、客観的にこの戦争の事を見ることが出来ましたが、参加者にはアメリカ人の方も居ました。敗戦という形で幕を閉じたわけですが、どういった心境だったのか、聞いてみたかったです。そして、”残忍なアメリカ軍は”的な表現も多く、聞いてるこっちがハラハラする感じでした。ただ、これは観光という娯楽の1つなので、みなさん楽しそうでしたけどね!

ブイビエン(Bùi Viện)通り

東南アジア独特のカオスな熱気

日本ではこのブイビエン(Bùi Viện)通りに似た雰囲気の場所はおそらくない。そんなちょっとカオスな場所です。

ここは市内屈指のナイトスポットです。また、ベトナム最大のバックパッカー通りとして有名です。

ホーチミンのランドマーク、ベンタイン市場から徒歩10分に位置する中心地で、有名な観光名所や高級ホテル街からのアクセスも非常に良いのも人気の理由です。タイのバンコク”カオサン通り”と比べられる事がありますが、規模感こそ劣るものの熱気は同等以上と言えています。タイにも行きタイ!!

週末に限らず平日でも人通りが多い場所ですが、金土日の夜はまともに歩くことが出来ないほど、行き交う人々が多いです。

お土産店、旅行代理店、飲食店、クラブ、ガールズバー、マッサージ、そしてバックパッカー向けのゲストハウスなど、現地の若者から観光客まで幅広い人を惹きつける魅惑の街です。

グレー系マッサージや娼婦/売春婦、マリファナ、シーシャの煙によって独特の雰囲気があります。

今回僕は特に目的はなく、1kmぐらいのこの通りを往復して終わりました。複数人の友達と来ていたら楽しいだろうなって思いました。
ちなみ、写真の最後に写っている丸い風船は、日本じゃダメなやつらしいです。ちゃんと確認はしてませんが。なんでもありなカオスな場所です。ただ、東南アジアらしい活気のある場所なので、必ず行ったほうがいいです。

まとめ

という訳で、旅行2日目が終わりました。朝から色んな所を歩き回ったので、濃い1日を過ごしたんじゃないかなと思います。
9月2日という建国記念の日に戦争のことを少し学べたのが、僕的に良かったです。歴史って面白いですよね。その歴史の上に今の僕たちがいることをちゃんと理解しないといけませんね。

ホーチミンへ遊びに行きたら、今回紹介したルートは是非体験した欲しいですね。間違いないです。特にクチ(Củ Chi)には行って欲しい。
次回はホーミン最終日です。ちょっとだけ遠出しました。ではまた。

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